「エッセイ」カテゴリーアーカイブ

石神井公園の池

昨晩、成人式以来に会う中学時代の友達と石神井に行った。
石神井公園の池は、遊歩道から水面までの距離が近く、油断をすればドボンといけるぐらいだった。
そんな場所を夜に歩いているわけだからなかなか怖く、黒い水面には人を引き込む力があるよなあという話をしながら池の周りをなぞっていた。
私は魚を見るのが好きで、できるだけ大きい魚を見たい、願わくばこの世にいるとされるどんな魚よりも大きい魚を見たい、という気持ちが常にある。
そんな欲望を友達に聞かせながら、すぐそばの水面下ではまさにそんな魚が私の言葉を聞いているかもしれないと思えばぞくぞくした。

友達が急に立ち止まり、
「ここから見ると、あの木からぶわーっと他の木が広がっているみたい」
と言った。
同じ場所に立ち、友達の指差す方を見てみると、なるほどこれは、と思わされ、
「一点透視図法でいう消失点だね、あの木は」
と言ったら、
「中学の美術で習ったことをよく思い出せるね」
と褒めてくれた。
義務教育で習ったことはかなり記憶できている。

その日見た夢では、屋形船のようなところにいて、大学の友達が巨大なウツボを釣り上げた。
私の理想にはほど遠い大きさだが、それでも巨大魚が身近に現れる体験をできたのだから良い夢であった。

初夢について

ツイッターで、初夢の内容をつぶやく人がちらほら見られた。
私も初夢を見たが、その内容がかなり盛りだくさんで記憶するのも記録するのも大変だったので、印象的だった二点を挙げてつぶやいた。
しかし、初夢を記録することにどんな意味があるんだったか、と思う。

私が見聞きしてきた俗習では、「一富士二鷹三茄子を初夢に見ると縁起がいい(数字の順に)」というものがあるが、それら三項目が登場しなかった初夢をどう処理すればいいかは知らされた記憶がない。
私が知らないだけで実は何らかのしきたりがあるのだろうか。

そもそも、夢という自己生産的な現象に縁起の良さを見いだそうとするのは面白い。
夢の材料となる情報はそれまでに経験した出来事だったりするので外的要因と言えるだろうが、最終的に夢を作り出すのは各自の脳だ。
それでも夢は縁起を判断する要素になり得、そしてほとんどの人の夢に例の三項目が登場していない様子を見ると、不思議なものだなあと思う。
もしかしたら、この縁起判断法が生まれた時代には、夢というものは自分の力が及ばない、全く得体の知れない神秘現象だと思われていたのかもしれない。

分からない話ではない。
実は私も、自分の脳が夢を作っていると証明することはできない。
仮に自分の脳が夢を作っているとして、それが自分の意思によるものだとは言いきれない気もする。
とすれば、「一富士二鷹三茄子」の縁起判断法は、運試しとしてまあまあ成り立っているのだろうか。
……そうか?

話は戻って、初夢を記録することの意味についてだが、これに深く言及すると性格の悪い感じになってしまいそうだと気づいたのでやめておく。
みんな楽しければいいと思う。
私もつぶやいたし。

今年もよろしくお願いします。

海上保安庁

海上保安庁ってカッコいい名前だなと思う。
海上の安全を保つ機関。
カッコいい。

人間は基本的に陸地に存在し、海を拠点とする者はほとんどいない。
肺呼吸だし、泳ぐように作られた体を持っていないことが理由として挙げられよう。
しかし海には、人間の食料たりうる生きものがいる。
海底には化石燃料などもあるし、海水自体も塩になったり冷却装置として使えたりする。
この他にも、数えきれないほどの恵みが海にはある。
だから自分たちの海を守る必要がある。

日本は海に囲まれた島国だ。
領海という財産はあるが、それを守る責務も同時に発生する。
大変じゃないか!
海を移動するための乗り物として、船がある。
船には武器を搭載することができる。そんなものが知らず知らずのうちに日本へ近づいていたらどうするんだ。
怖い、怖いよ……

???「安心してください」

あ、あなたは!?

「海上保安庁です」

カッコいいなあ

苗字かぶり

組織に属していると、同じ苗字を持つ人々が見られることがある。

そういった人々はそれぞれ下の名前で呼ばれたり、「ちゃん」「くん」などジェンダー的敬称の使い分けがなされたりする。
あるいは苗字を使うことが避けられ、肩書きやあだ名で呼ばれることもある。

しかし、例えば同じ苗字の人がふたりいて、うち片方が組織において非常に影の薄い存在である場合、苗字のみあるいは「苗字+さん」などでもう片方を指すことが可能になることがある。
これは、「まさか影の薄い方は指さないだろう」という暗黙の了解や、単純にもう片方の存在が忘れられていることが作り出す状況である。

先日、私が属す組織で、あるイベントに向けた役割分担の名簿が作られた。
苗字のみが表に埋められ、私自身の苗字を確認しながら全体をざっと見たら、おやと思うことがあった。

私が「この苗字は組織にふたりいる」と認識していた姓が、名を添えられずに記載されていたのである。
「これではどちらを指しているのかわからない」と思った。

しかし、よく考えるとその苗字を持つ人のうちひとりはあまり姿を現すことがなく、おそらく組織内での認知率も非常に低いと思われる。
とすれば、この表の作成者はそのあまり姿を現さない方の存在を忘れていて、区別の必要性に気づかなかった可能性がある。
そういうことかな、と思って済ませることにしたが、私はどちらかといえばあまり姿を現さない方とよく話していたので少し寂しかった。

イベント当日、その忘れられていた方は姿を現さなかった。
そして、同じ苗字を持つ影の濃い(?)方が名簿にあったとおりの役割を担当していた。
まあそうか、と思った。

後日、このことを考えながら外を歩いていたら、T字路の角から影の濃い方が現れた。
その人はすぐ私に気づき笑顔であいさつをした。

私もあいさつを返したが、なんだかその人が私からの認知度を上げようとしているみたいで怖くなった。
まるで影の薄い方を組織から完全に忘れさせようとしているようで。

あいさつをしてくれたその人は何も悪くないのだが。

ドライブスルー

中学生の時、町に初めてドライブスルー付きのマクドナルドが出来た。

単純なマクドナルドの店舗はすでに存在していたが、ドライブスルーがあるというのは私をかなりわくわくさせた。
しかし、当時中学生の私には自動車を運転する権利がなかったため、仕方なく自転車でドライブスルーを利用しようと考えた。

この試みを友達に提案したところ、関野くんが同行してくれた。

放課後、マクドナルドに集まり、ためらわずドライブスルーレーンに進んだ。
たしか前に一台車がいて、それを待った記憶がある。

やがて我々の順番になり、注文をしようとすると、スピーカー越しに「少々お待ちください」と言われた。
不穏な気持ちで待っていたら、店の自動ドアから偉そうな格好の女性店員が出てきた。
マクドナルドの偉そうな店員というのは、青や紫を基調とした、ねるねるねるねの製作過程のような色合いの服を着ているものだと認識している、と思っていま調べてみたがそんなことはなかった。グレー系だ。当時は青系だった可能性もあるが。

さて、偉そうな女性店員が出てきて、我々のところにツカツカと歩いてきて、
「自転車でのドライブスルーのご利用はできません」といったようなことを言った。

悔しさと恥ずかしさ、やや怒り、といった感情を私は抱いた。

当時の私には、自転車は車だという認識があった。
そういう話をテレビか何かで聞いたことがあったからだ。
ゆえに、ドライブスルーを利用する権利はおおよそ持ち合わせているものだと思っていた。
しかし、それは誤りだったらしい。

シュンとした気持ちで駐輪場に向かい、自転車を置いた。
あって然るべき駐輪場なんだな、と思いながら店内に入り、注文をした。

サンデーのストロベリー味を食べながら、ドライブスルーにはマイクだけでなくカメラも設置されているんだな、と思った。
関野くんはサンデーではない何かを買っていた。
違うものを食べている、と感じた。

自転車は軽車両であるという交通法的知識は今でこそあるが、だからといってドライブスルーを利用する権利を主張できるかどうかはわからない。
ただ、マクドナルドではダメらしい、というだけだ。