冷凍の芋を揚げて塩を振ったらポテトができてうまかった。
スナップエンドウを茹でて、そのお湯を捨てずに温玉を作った。さらにその後のお湯も捨てずに、パウチ食品を温めた。すごい効率性だろう。最後にその鍋に浸かって入浴した。
しばらく停滞してしまっていた同人誌の計画を少しずつ進め始めた。やはり物ができていきそうな雰囲気は楽しい。
https://twitter.com/corocoro_tw/status/1734951319507550337?s=20
これかなり衝撃を受けた。あの、本当のコロコロと何が違うのかは不明だけど知らないタイトルが多くて、自分でもどういうモチベーションで買っているのか分からないまま読んでいた別コロで漫画化なんて……。
ターゲット層である子どもたちはウェブライターが漫画化されるおかしさなんて知らなくて、「なんか知らない大人が出てくる漫画が始まったな」ぐらいの感覚でただ目の前にある漫画を読み続けるんだろう。だからこそ、そういった受動的な存在にコンテンツを提供する立場になるということがとんでもないことだなと思う。
同時に、やってみたいと思った仕事はもっと積極的にやっていいんだなと思わされた。これはコロコロ編集部サイドの判断を受けた感化である。
井沢どんすけとか石塚2祐子みたいな人たちをなんとなく見て育ってきて、今でも漠然と憧れる存在と捉えてしまっているけど、もはや私ですらそういう人らになることを具体的に目指せてしまうのかもしれない。何も考えていなかったが、もしかしたらすでにオモコロライターというのはそれに類するようなものなのだろうか……。
ただの外部ライターでしかない私がどうこうできることじゃないんだが、オモコロのコンテンツとして、学習関連のものを作ることができたらいいなと思うことがしばしばある。子どもや学生をターゲットにしたいわけではなく、むしろ積極的に学習するのは大人の方が多いぐらいの印象もあり、とにかく物事を理解する過程を見せて楽しませることはできるんじゃないかというイメージがあるのだ。この世には理解するのが難しい事柄がたくさんあり、それを理解することをコンテンツ化する手段さえあれば、果てしないネタの資源を得ることができる。しかも知識が得られて、ライターとして書けることが増えていく。良いことじゃないか。
難しいのは、学習するためのソースは主に他者の著作物に頼らざるをえないということだ。また、一度のコンテンツ作りにかかる時間的・体力的リソースが甚大になることも予想される。
「勉強できるやつがふざけてるのを見ても笑えない」みたいな感覚が壁になることも想定できる。しかし私はその感覚をこそ否定したい。そう思わせないためには、コンテンツを見た全員が理解できるようになる、あるいは理解できるかも(理解できているかも)と思わせるしかないのかなと思う。つまり、勉強している人の存在を認知した時点で、共犯的に「自分も勉強しちゃった」状態にしてしまえばいいんじゃないかということだ。
ひとまずソースの問題を打破するためには、出版社か教育・研究機関の協力が必要だと思う。コロコロの小学館は大人向けの学習に強いイメージはないし、集英社含む一ツ橋グループとしても娯楽ジャンルをメインとしている印象だ。やはりクイズノックの力を頼って、東大とつながるのがいいかな。もう疲れてきたので適当なことを言っている。
書きながら考えているので話が逸れるが、知識はどこから自分のものとしていいんだろうか。本で学んだことも、この世の事実を確認し記憶したとして「こういうものなんです」と話していいのだろうか。きっと表現を丸パクリしなければおおよそ大丈夫なんだろうけど、まあ私がやりたいのはそういう再生産的なことじゃないからな……。
なんか考えがまとまらなくなってきた。とにかく、物事を理解する過程は本質的に面白いという確信があるのだ。それを客観的にコンテンツ化することも無理じゃないと思う。金スマの「キンタロー。が社交ダンスをやる企画」とかはそういう例な気がするし、もっと抽象的に言えば工場夜景とかもそれに近い気がする。
めし食う企画で「うめー!」つってる人を見て「自分も今度それ買お~」と思うように、勉強する企画で「分かったー!」つってる人を見て「自分も今度それ分かろ~」と思うみたいな……。やれる気がするんだよなあ。