2024年9月

9月22日
サイト名を「蛸足ターミナル」としました。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

動画を投稿しました。
9月23日
幽谷霧子の誕生日。
私は去年の10月あたりにシャニマスと幽谷霧子に興味を持ち始めたから、それ以来だと初めての誕生日ということになる。Twitterのおすすめタイムラインに霧子の絵がたえず流れてきて嬉しい。
Apple Musicであれこれ聴いていたら、クレイジーケンバンドが先週出したアルバムの中に「霧子」という曲があることを知った。

 


親戚の作品が出ている美術展に行ってきた。ここ数年は毎年行っている気がするが、本人とは久しぶりに話せた。会場は国立新美術館だったので、同じタイミングで開催されていたCLAMP展の客がたくさんいた。
叔父家族と一緒に行き、先週納品されたばかりの新車で送り迎えしてもらった。かなり高機能で、車内のあれこれをいじっているだけで飽きない。質疑応答にも熱がこもる。六本木の地下駐車場を使ったりしてテンション上がった。
車って一度買うと10年単位で乗ったりするから、世界では常に技術が進歩しているとしても、体感する機能にはギャップが生じやすい。そういう点ではカーシェアというサービスはつまみ食い的な楽しみ方ができていいのかもしれない。

 

8キロの速度制限。徐行以下のスピードだ。
親戚の人生に便乗してラグジュアリーな気分を体験した日。

 

9月24日
風が吹くと少しひんやりするような気温だった。夏は完全に終わった。分かりやすい「暑さ寒さも彼岸まで」だ。

 

仕事で下北沢に行ったら、大きい月のバルーンが浮かんでいた。月をテーマにしたアートフェス的なのをやっているらしい。改めて写真で見ると面白さ増すかもしれない。
かなり多くの人が写真撮ってたけど、みんな撮り方がよくないように思えた。思い切ってしゃがんで、下から撮って背景の建物に被らないようにするのがベストだと思う。私はそうした。一人ずつ教えてやればよかった。

 

9月25日
このサイトへの流入経路って自分でも全く把握できていないぐらい整備されていないんだけど、それでもここを拠点とした日記の更新を始めて以降、アクセス数が今までよりはわずかに増えている。つまり移行に合わせてこちらを見に来てくれている人がいるということだ。嬉しい……。
それはそれとして導線はあるべきか。とりあえずnoteの方で書いてきます。

 

書いてきた。noteのサポート機能でご支援いただくとこのサイトの寿命がきっと伸びます。
ていうかそこも将来的にはnoteに依存しないやり方を試してみたい気持ちあるな。これに関してはいろんなことをしてみたいという気持ちがあるだけだが。OFUSEとか聞いたことあるけどどうなんだろう。

 

9月26日
今日気づいたこと。
B’zの『LOVE PHANTOM』のイントロの長さは有名だが、実は『ultra soul』のアウトロの長さもなかなかのもの。
youtubeに動画がなかったので各自音楽サービスなどで聴いてみてください。イントロと違ってアウトロはその後に楽しみがないからこそ「まだ終わんねえ……」の気持ちが募る。
ついでに思い出したけど私は中学の頃にB’zのアルバムを買っていた。その頃は自覚できていなかったが、今思えば当時も心の何処かにアウトロの長さへの違和感があった気がする。
大学1年の頃にはテレ朝のライブに行って生でB’zを見た。

 

9月27日
問い合わせフォームよりお便りをいただきました。
鬼谷さんのこれまでのページを読んでいたところ、スーパーマリオサンシャインをプレイし続けていたとのことで、好きなステージや印象に残っているステージはありますか?
私も昔、兄と一緒によくプレイしていて、シレナビーチのマンタが出てくるところが怖かったことをよく覚えています。
隅々まで読んでくださりありがとうございます。ここに書いてあるやつですね。
スーパーマリオサンシャインは私が小学生になるかならないかの頃に発売された任天堂GC用ゲームで、当時は所持しておらずプレイもしていなかった。しかし友達のMくんの家にはそれが置いてあって、私はそのパッケージを見ながら「いいな……」と思い続けていた。思うだけで、それをMくんの家で遊ぶことはなかった。1人用のゲームだから。そしてそんな憧れを抱いているうちに「マリオサンシャインは憧れの対象であり、自分がやっていいゲームではない」という感覚が生まれていた。
そこからしばらく後、大学受験が終わって進学まで少し時間ができた頃、私はハードオフで中古ゲームを漁る日々を過ごしていた。買うものはゲームボーイのソフトばかり。基本は105円のやつで、たまに210円とか315円のやつも選んだ。「カエルのために鐘は鳴る」もその頃に105円で買って、面白さというかゲームとしての美しさに衝撃を受けた。
地元のハードオフのゲームボーイコーナーの代謝は大して活発なものではなく、飽きが生じてきた頃に「そういやゲームキューブもあるなあ」と思い、「もしかして俺ってもう自分の意志でマリオサンシャインをやっていいのか」と気付いた。それで買って、シャイン120枚をゲットするまで遊び続けた。というか、もはやシャイン関係なくマリオとしてうろうろしていた。好きな人はみんなそうやって遊ぶゲームだと思う。
お便りにあった「好きなステージや印象に残っているステージ」については、モンテのむらが一番好きです。そもそもゲームキューブのゲームってかなり異世界感というか、自分以外に人間がいない気配を強く感じるんだけど、モンテのむらはそのGC特有の寂しさとか不安が顕著で好き。寝ているときの夢に唯一出てくるステージかも。
シレナビーチのマンタに関しては、『ひちゃこのゲーム体験記』という、かつて『ファミ通キューブ+アドバンス』というゲーム雑誌で連載されていた漫画があり、そこでの「分裂して小さく残ったマンタの退治に追われているうちに、地面のわずかな汚れに気づかず踏んで感電する」というシーンが強烈な記憶として残っている。これは今でも事あるごとに思い出す。風呂場を掃除しているときとか。

『ひちゃこのゲーム体験記』(ひちゃこ)P.34

本が手元にあったから引用します。この漫画は本当に数え切れないくらい読み返した。マリオサンシャインがまだ憧れのゲームだった頃、これを何度も読んで遊んだつもりになっていた。もはやゲームの風景そのものよりも印象深い作品かもしれない。

 

9月28日
「来月にはテレビで放送するのに」でおなじみシャニマスの映画を見てきた。本当は来週見るつもりだったんだけど、不意に6時半ごろ起きてしまったので家を出て電車に乗りながら朝イチの回を予約した。

 

写真撮っていいよコーナーの1カット

今回は浅倉透にかなり感情移入した。

 

「楽勝」なの、わかるなーというか。「あれ、自分いま生きてるんだっけ」みたいなこと感じるときあるよなーとか。
これ言うとめっちゃ痛いやつに思われそうなんだけど、浅倉透と芹沢あさひを見るたびに「俺だ……」となる。
あさひは世界のことをオブジェクトが点在する空間として見ている感がある。感情や思考というものも、個人が保有するテキストデータとして捉えているような。肉体は世界にアクセスするための道具であると捉えていて、他人のことも「そういう目的で肉体を動かす存在=知らない世界を見るゲームを共有している別ユーザー」と捉えているような。まあそんな感覚に基づくコミュニケーションが社会的に正解なわけはなく、視野の狭さは未熟そのものではあるんだけど。
対して浅倉は命を見ているというか、人を人として見てそれなりに考えていると思う。しかし多くの人は自身や他者のことを頻繁に気にする割にコミュニケーションが雑というか練度が低くて出力がうまくできてないから、世界に対して肩透かしを食らっている感覚があるんじゃないのかな。だからこそ真乃みたいな「ガチで人を見て、ガチで話してくるやつ」がいて心が動いたんだと思う。いるじゃん、って。
こんなこと書いて「浅倉透と芹沢あさひって俺だと思うんですよ」とか言ってるのやばいか。忘れてください。

 

最終的に今回の浅倉には救われが発生していて羨ましいなーと思った。仕事の中でそれ見つけられたならマジで最高じゃん、みたいな。観た後の感覚としては『JOKER』に似てるかも。ホアキン・フェニックスの。

 

ちなみに3章では霧子ほとんど出てきません。

 

9月29日
アオサギを轢きそうになった。
田んぼに挟まれた道を運転しながら「前方にアオサギがいるな〜」とは思っていたのだが、近づいても退く気配がなく、強くブレーキをかけさせられた。もっと積極的に逃げていくものかと思っていたから意表を突かれた。大きくて動きが遅い鳥だから、私が気を遣わなかったら本当に轢いてしまっていただろう。
アオサギは人を嘲るような佇まいがある。以前も雪が降る中を運転していたら、目の前をアオサギが翼を広げて横切っていき、驚かされた。だから『君たちはどう生きるか』のあの描写には納得できる。

 

9月30日

楽しい食事とお酒があった。

 


 

先日の日記で「マリオサンシャインだと『モンテのむら』が好き」ということを書いたら、複数の方から「自分も好き」というメッセージをいただいた。いいですよね。海が見えない異質さも。

ゲームキューブ作品の「異世界」「隔世」感の要因は、インターネットに接続していないことが多分にあると思う。有に対する無の特徴だから順番は逆になってしまうが。(しかし、ゲームキューブが最新ハードだったときに今のような郷愁を感じていたかというと、どうですか?)

ゲームキューブ以降の任天堂ハードはDSやWiiと続き、その間にソニーのPSPもあったりして、オンライン通信機能が追加されて世界が広がるとともに遊び場の境界があいまいになっていく。テレビ対自分という数畳規模の構図がなくなる。Wii UやSwitchになると本体からのSNS連携機能も搭載される。

個人が1人で過ごす時間が極端に減っていると感じる。夏休み明けの「沖縄行ってたんだ!」「飼ってたハムスター死んじゃったんだ!」みたいな、出来事に対面したタイミングの違いによる当事者と聞き手の温度差が生じる場面が少ない。あの小さな事件感、好きなんだけど。相対的に自分の時間の過ごし方にも輪郭が与えられるような気がして。ブロックチェーン的コミュニケーションが常態化している。

「今日は楽しかったね。じゃあそれぞれの家に帰りましょう」程度の話が成立していないような感覚。ゲームキューブの世界に思いを馳せる人々は、ただ自分の布団で眠りたいだけなんじゃないか。

 

タイトルとURLをコピーしました