なかなかの青空だった。
牛スネのワイン煮を実家に持っていった。そこそこ好評でよかったが、東京で食べる方がうまく感じた。一回冷凍したからかな。
国産のキウイらしい。小さくて酸っぱかった。
布団の上に節分の痕跡あり。
いまSNS完全に飽きてるかもしれない。ていうか、「本来は一次的に熱中するようなものじゃないのだ」と気付いた感がある。これに関してはブルースカイに感謝かも。目を覚まさせてくれた。逆に言えば、Twitterはあれだけ文句を言われていながらも見せる力は相当あったんだろう。
仕事上Twitterは見ざるを得ないけど、正直いよいよプラットフォームのあり方が変わってもおかしくないというか、これ以上ここにいても新しいことって起きないと思う。この可能性を体感するのって遅いのかな。
結局、新しい技術を待つしかないのかもしれない。現状私がメタバースに盛り上がれない理由は単にデバイスがデカすぎて頭が疲れるからだが、それがもしメガネぐらいのサイズ感で一日中使ってもバッテリーが切れなかったら明確に世界変わるもんな。
私の人生における驚きの最上位って、いまだにWiiとDSiなんです。棒状のコントローラーを振る動作がそのままゲームに反映されるなんて。ゲームにカメラとマイクがついていて、音付きのパラパラ漫画が作れるなんて。離れた人と遊んだり交流したりできるなんて。
「WiiやDSiを知った時のような驚きを感じたい」と実は常々思っているのだが、なかなかない。そのように驚くのは無知な子供の特権なのかな。
あ、私が生成AIに新しさを感じなくなってきた理由が分かった気がする。私はあれらをまとめて「ディスプレイに映ること」と捉えているんだ。つまりどこかのサーバーがすごい働きをしてすごいデータを出力して送信してくれても、「その場に存在する末端のデバイスとしてはディスプレイであり、その光を見ていることに変わりない」と直感的に受け取ってしまっているのが私なのだ。
見たことのない機械が、体験したことのない視覚・聴覚・触覚等を与えてきたり新しい物体を生み出したりしたときに私は驚くのかもしれない。自覚していなかったけど案外身体的な感覚を優遇する奴なのか。あるいは単に選り好みするというだけか。