「エッセイ」カテゴリーアーカイブ

NHKのど自慢

毎週日曜12時15分から始まり13時に終わる、NHKのど自慢。
全国のホールを巡って行われる生放送の音楽番組である。

私はこの番組が好きだ。

のど自慢では、予選を勝ち抜いた20組の一般人が1組ずつ司会のアナウンサー(現在は小田切千アナ)の口上を受け、「〇番 △△(曲名)」と言ってから歌い始める。
やがて審査員の評価を表す鐘が鳴らされ、合格ならば狂喜乱舞し、不合格ならば相応のリアクションをする。ただ、不合格で心底落胆する様子を見せる参加者はほとんどおらず、歌うこと自体を楽しんでいることが伝わってくる。

鐘の合図で歌唱が終えられると、すぐさま司会アナウンサーが寄ってきてあたたかい言葉をかける。
歌い終えた人は感想を述べ、アナウンサーとのやりとりの中で、
「なぜここで歌おうと思ったのか」
を述べる。
これが良い。
愛する家族、友人、同志へメッセージを伝えるため、夢や愛を誓うため、これまで磨いてきた自分の歌唱力を多くの人に見てもらうためなど、目的は様々であるが、私が最も感動するのは、
「誰かに向けて歌う」姿である。

春から遠くへ旅立つ子のために親が、
今まで育ててくれた親のために子が、
面倒を見てくれた祖父母のために孫が、
未来へ進む生徒のために教師が、
夭折した親友のために親友が、
慣れない大舞台で緊張しながらも一人で歌う姿に心を打たれる。

観客や視聴者からの視線を受けながら歌うその人は、観客や視聴者のために歌っているのではない。
それぞれ唯一無二の愛する存在のために歌っているのだ。
なんと気高く眩しいことか。

これを一人で見ていると涙がぼろぼろ出てくる。
素晴らしい、ああ素晴らしい、人が生きて、人に何かを伝えようと一生懸命歌う姿はこの上なく美しい。
心の中でそう呟きながら、号泣している。

「4月から一人娘が進学のために東京へ行くので、頑張れという気持ちを込めて歌いました」
と、九州に住む男性。

グスン。

「おばあちゃんが教えてくれた昭和歌謡です。すぐパチンコに行っちゃうおばあちゃんだけど、大好きだよ。ありがとう」
と、中学生の女の子。

グスングスン。

私自身が田舎出身で祖父によく面倒を見てもらったということもあって余計に感動しやすいのかもしれないが、きっとそれを抜きにしてもNHKのど自慢の良さはたしかにあるはずだ。
日曜の昼間にテレビを見る人はもしかしたら少ないのかもしれないが、それでも是非一度チャンネルを回してみていただきたい。
昔見たきりで最近はめっきり、という方も改めて触れてみることをおすすめする。

ちなみにNHKのど自慢の見どころは「必ず13時に生放送が終了する」という点にもある。

番組進行の手綱を握るのは小田切千アナウンサーだ。
言葉に詰まる参加者にはスムーズに助け舟を出し、おしゃべりな参加者には少し強引に対応しながらも、終始明朗に次の参加者へマイクを繋ぐ。
20組目の参加者が歌唱を終えればもう番組終了は近い。
ゲストの歌手が歌い、生演奏のバンドメンバーが紹介され、特別賞と今週のチャンピオンの発表がされ、次週の放送内容(会場)が紹介されて、13時(いちじ)のニュースが始まる。
45分間で20組の一般人が歌う番組が、必ず定刻に終わるのだ。
この進行に痺れる。

NHK総合、日曜午後12時15分から、ぜひ。

肛門や胃に関する気づき

昨日、知人と中華料理店で食事をした。

彼は麻婆豆腐を、私は辣子鶏を食べた(中華料理というと何品か頼み取り分けて食べる印象があるが、我々にはそこまでの資金もなく、メイン料理一品にご飯などがつくセットを注文した)。
麻婆豆腐も辣子鶏も辛い料理である。辛い辛いと言いながらも食べ終え、一息ついていると知人が、

「こんなに辛いと、明日の腹の調子が心配だな」

と言った。
私はこの言葉を噛み砕くのに少し時間を要した。そして「辛みの強い料理を食べたせいで胃に負担がかかり、腹痛が引き起こされないか心配だ」という意味だろうと解釈し、多分これで合っていた。
なぜ解釈に時間を要したかというと、私自身はそのような体験をしたことがなかったからだ。体験は無いが、聞いた話で同じ理屈のものがあったのでこう解釈した。
そして私はこの体験をしたことがない理由を「自分の消化・排泄器官は香辛料などを判別できるほど高度なものではないから」だと思っていた。

今日の昼、腹が痛くなった。
うんこをしたら、肛門が痛くなった。
そして昨晩の出来事や会話を思い出し、因果関係の可能性に気づいて感動した。もしかしたら私の胃もそういうことかもしれない、と思った。
もしかしたら、これまで体験したことがないというよりも、気づけていなかっただけなのかもしれない。

しかも面白かったのは、同じような痛みを経験した覚えがあることだ。特に肛門。このヒリッとした感じは過去にもあったな~と思わされた。もし同じ感覚を抱いた際の前日の食事がすべて辛いものだったとしたら、驚くべきことだ。

それにしても、肛門や腹の痛みを前日の食事と結び付けて考えられる人は凄い。今ここで存在している痛みに対して、そんな前のことを引き合いに出すのは簡単なことではないと思う。

いや、でも例えば私は台風一過の因果には必ず気づける。台風が来た→晴れた、という因果は毎回強く感じている。台風と晴れの時間的間隔は食事と排便の間隔にも近いはずだ。
なぜ腹痛と香辛料の因果に気づけなかったのか。

おそらく、私は自分の腹痛もとい体調不良にそこまで関心がないからだ。腹痛に対しては主に「ああ腹痛であることよ」としか思っていない気がする。過去の食事を思って「あの辛いやつを食べたからだ~」とか「あの生ものが当たったんだ~」などと考えたことがない。渦中の私はそんな余裕がないほど苦しんでいるとしたら情けない。

しかしまあ今回の一件で私の肛門も案外グルメなのかもしれないということが分かった。
これからまた同じ痛みを感じることがあったら前日の食事を思い出そう。

餃子とライス

餃子の店にはライス※もある。これは間違いないと言っていいだろう。餃子と一緒にライスを食べると美味しいからだ。そうだそうだ。
いや待て。なぜ餃子と一緒にライスを食べると美味しいのだろうか? その理由を求めるべく私は黄河の源流へと向かった……。(※この記事では「ごはん」「白米」のことを全て統一して「ライス」と表記します。これが本当の米印。)

そもそも餃子というのは、刻んだ野菜や肉をこねた餡を小麦粉で出来た丸い皮で包んで蒸し焼く料理である。つまり素材の構成要素は大まかに分けると、

・小麦粉
・野菜(白菜、キャベツ、ニラ、ニンニク、タマネギなど)
・肉(牛、豚など)

ということになる。これらが組み合わさって出来る餃子は、ライスとの相性が良い。では、もしこれらの材料を用いた料理が他にあるとしたら、それはライスに合うということなのだろうか。そう考え始めた瞬間に想起されたものがある。お好み焼きだ。
お好み焼きと言えば、小麦粉を溶いた生地に刻んだキャベツや豚肉を混ぜ、円盤状に広げて焼く料理である。構成要素は、小麦粉・野菜・肉。餃子と一致している。
しかしこのお好み焼きという料理、ライスに合うと言えるだろうか。「合う!」と胸を張って言える人々が存在することは知っている。知っているが、残念ながらあなた方は少数派だ。お好み焼き屋でライスがなかったために肩を落とす人はほとんどいない。お好み焼きの供にライスは求められていないのだ。考えてみれば、小麦粉とライスはともに炭水化物であり、これらの相性が良いことの方が奇跡なのかもしれない。
小麦粉・野菜・肉の組み合わせがライス相手に苦戦することがあると分かったところで、この三要素がそれぞれ具材として主張されるほかの料理も挙げて、ライスに合うかどうかを分けてみた。

【ライスに合う】
・餃子
・すいとん(汁物は反則に近く、これはライスの代わりにさえなる)
【ライスに合わない】
・お好み焼き
・ピザ(欧米の主食)
・サンドイッチ(洋の主食)
・ハンバーガー(アメリカの主食)
・タコス(メキシコの主食)

なんと、今の私にはこれだけしか思いつけない。絶対にもっとある気がする。しかしこれだけでも分かったのは、小麦粉は往々にして主食になるということだ。餃子のような例の方が珍しいのかもしれない。
なぜ餃子だけはライスと合うのか。私は途中から気づいていた。鍵を握るのはおそらく、餃子に最終的な味をつける醤油の存在である。
醤油は、もはやライスに垂らすだけでパクパクいけてしまう調味料だ。そのパワーは小麦粉にも屈せず、餃子をライスの供たらしめている。小麦粉と肉で構成されるシュウマイだって醤油につけて食えばライスとの相性バツグンではないか。もはや日本人はライスを食べるために醤油を用いている可能性まで考えられる。もしかしたら餃子も中国ではライスと合わせずそれだけで主食となっているかもしれない。
醤油に着目したところで、お好み焼きがライスとの相性に難ありな理由も見えてきた。お好み焼きに味をつける調味料はソースである。ソースは甘みが強い。ライス自体が甘みであるのにソースの甘みも加わったらくどく感じるのも無理はないというわけだ。そうか。そういうことだったのか。あれ、じゃあトンカツは?

餃子の話ではなくなってしまった。最終的にはライスと調味料の相性の話である。こんなつもりではなかった。
私は餃子が好きだ。その餃子の良さを見いだそうとしたはずだったのだ。しかしこれではまだ餃子の魅力に光を当てられていない。悔しい。
満足できない私は、餃子の真価を追究するため長江の源流へと向かった……。

『和風にされたその牛は』

先日、ビッグボーイに行った。
ファミレスチェーンのビッグボーイである。
しばらくめまいが続いていて、かろうじて歩ける状態になったのでできるだけ栄養のあるものを食べようと思いビッグボーイに行くことを選択したのだ。
ビッグボーイにはサラダバーもある。

和風おろしハンバーグを注文した。
和風おろしハンバーグは他のハンバーグよりも安めに値段設定されていることが多いのでありがたい。
サラダバーではオクラをたくさん食べた。
ありがたい。ありがたい。

感謝の気持ちに満たされながら何度目かのサラダバーに行くと、食材の生産地一覧が印刷されていることに気づき、目を通した。
病み上がりの脳にはちょうどいい情報量だ。
どうやら私が食べたハンバーグに使われている牛肉はオーストラリア産らしい。
「はるばるオーストラリアから、どうもありがとう」と思った。
体調の不良が改善すると世界は輝きを取り戻す。

それにしても私はオーストラリアの牛を食べた。
これは初めてのことではなく、きっと数え切れないほど経験したことだ。
しかしながら私は、例えばオーストラリアの空を見たことがない。
不思議ではないだろうか。

空を見るより牛を食べる方が簡単だということなのだから。
不思議だ。

日本に住むあなたが部屋で寝転がっているときに天啓を受けたとしよう。

「汝、救われたくば、5秒以内に牛を食べるか空を見よ」

その瞬間あなたはバッと立ち上がり、窓を開け天を仰ぐだろう。
そして救われる。
たった5秒で。

だが、オーストラリアの空はこうも簡単には見られない。
航空券を用意して、飛行機に乗って、パスポートにはんこを押してもらって、やっと、空を見る権利が得られる。一苦労だ。

一方オーストラリアの牛肉は、わざわざオーストラリアに行って牛を捕獲したり精肉店を探したりしなくても食べられる。
最寄りのビッグボーイに行き、座ってちょっと待っていればいいのだ。
すると、牛肉を持った店員がどこからともなくやってくる。
不思議!

魔法のお店、ビッグボーイ。

無意識のエラー

歩くときは左右の脚を交互に繰り出し続けるわけだが、私はそのルーティーンに失敗することがある。
具体的に言うと、私はいつもこの動作を「無意識」というものに頼って実行しているが、その「無意識」が突然に停止して、意識的に右脚左脚を繰り出さなくてはいけなくなることがある、ということだ。
その切り替えをスムーズに行うのは難しく、いつも1秒程度フリーズしてしまう。
軽い腿上げのような状態で固まってしまったのち、上げられたその足を適切な場所へ意識的に下ろすことでやっと歩行が再開されるのだ。
数歩歩けば「無意識」は復活する。

これは高校の頃に自覚した自分のクセで、初めて気づいたのは体育で50m走のタイムを測っていたときだった。
ヨーイドンの合図で私はがむしゃらに走り出していた。
すると、30mを過ぎたあたりで両脚の操業が突然スピードを落とし(ここで「無意識」がエラーを起こした)、同時に「次はどっちの脚を出せばいいんだっけ?」という感覚で頭の中がいっぱいになり、適当に判断して走行を再開した。
そんなわけだからタイムもよろしくなく、もともと脚が遅いのに増して不可思議なロスが付与された記録は、標準レベルで運動ができる友人達を驚かせた。
ちなみに翌年の計測でこのクセは顕れず、エラー発生時の記録より1秒速いタイムを出すことができた。
それでやっと下位30%ぐらいのタイムだったので情けなく感じたりもしたが。

「無意識」のエラーについて語ったが、それでも私は不自由せず生活できている(と思う)ので全然いい。
怖いのは、心臓がこのエラーを起こすことだ。洞房結節が常に心臓を動かしてくれていると生物基礎で習ったものの、そこでエラーが発生したら……と書いたところで自分に不整脈があることを思い出した。
私は、心臓に関しても「無意識」がエラーを起こす体質だったのだ。
そう気づいてしまうと、むしろ腑に落ちた。
一貫性があるじゃないか。

まあ実際、五臓六腑や細胞のあれこれが勝手に機能してくれているのはかなり楽でありがたいことだ。