2022年10月12日 考察のジレンマ

朝。昨日作ったごはんを温めて食べた。

最近、あらゆる検査を受けまくっている。
体のいろんな部分が正常でない。

今日も検査を受けた。

検査ばっかり!(クルム伊達公子)

このフレーズ、今適当に出した冗談じゃなく、本当に脳内で一日中リフレインしていた。
朝からずっと、検査を受けている間も、心の中のクルム伊達公子が「検査ばっかり!」と言っていた。面白いっちゃ面白いんだけど、うるさかった。

検査後のラーメン。有名なところらしく、少し並んだ。

ベローチェばっかり!

夜はこの2つを食べた。

見栄えが良くなかったので写真は載せないけど、うまかった。

スープ時代、来てます。

チェンソーマンのアニメ開始を受け、Twitterでは色々な感想や考察が散見される。すでに漫画として存在している物語だが、映像化したことでまた考察の余地が生まれるというのはすごい。

そんな盛り上がりを受け、私は自分自身について「作品を楽しむことと考察することを両立するのが大変苦手だ」と気づいた。(ここでの考察とは、漫画ならセリフや地の文で語られる事よりもさらに深く物語の背景などについて能動的に情報を並べ推察することをざっくりと指す)

考察という行為自体は苦手じゃないと思う。大学では考察みたいなことばっかりしてたし、それを楽しむこともできていたと思う。むしろ好きなぐらいだ。

ただ、作品を考察しようとするとき、その作品は私にとって「考察という遊び」のための道具になってしまう(私は精神的に不器用なので、そういう態度が考察に対する誠意だと考えてしまうのかもしれない)。

そうなると、少し寂しい。せっかく自分の好みにはまる作品と出会えたのに、訳もわからず興奮して楽しむということが難しくなってしまう。だから、ハマっている最中の作品についてはあえて考察的な読み方をしないようにすることがある。他者の考察もあえて真に受けない。触発されて自分の思考にもエンジンがかかってしまうから。
漫画なら、絵のうまさやセリフのカッコよさを刹那的に感じて「かっけえ……」とただ震えるのを繰り返している。

これらのことについて見方を変えて考えると、私の場合は「作品への関心」と「考察の動機」が特に結びついていないのだろう。むしろ考察はそれ単体で楽しめるので、作品の好みはあまり関係ない。万葉集とかの適当な一首を渡されて「考察せよ」と言われる形で充分だ。

あと、そもそも好きなものについて子細に理解したくないのかもな。私は理解できないものを好きになる癖があるから、対象のことを知れば知るほど好きな気持ちは薄れていく気がする。

バカっぽいが、「なんかわかんないけどすげー!かっけー!」という気持ちこそが私の愛の軸の一つなのかもしれない。

逆に好きな何かを積極的に理解しようとするとき、それは愛を深めようとしているのでなく、腹を括って自分の技術や知恵として吸収しようと考えているような感覚がある。そんなことしても狙い通り身につくわけではないが。

と、ここまでぐだぐだと言い訳チックに述べたけど、作品を主観的に楽しみつつ考察するコツなどご存じの方がいらっしゃいましたら、ご提案くださると幸いです。実行できるかは私の能力的に不明ですが、やっぱりみんながあれこれ意見を言い合っているのが純粋に羨ましく感じるときはあるので……。

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