オヒール
今日も午後に仕事でごはん食べられたので嬉しかった。もっと嬉しそうに振る舞えばよかった。
「ご自由にどうぞ」だったら一本もらってた。
↓以下、床に寝転がりながらガーーっと書いたもので、見返すと説明の足りない部分ばかりの文章なのですが、他に何かを書き直す体力もないので一応載せます……。推敲してないし思っていることの全てを書いているわけでもない。内容に関して、特別なきっかけとかはない。また、外交の比喩でもない。
俺って、のほほんとしたことが無いかもしれない。
もしかしたら傍目にはのほほんとしている私の姿がありえるのかもしれないが、心中では全くのほほんとしていないはずだ。
のほほんとしたいわけでもない。
のほほんは、穏やかさとイコールなわけではなく、受け入れがたい愚かさも含む気がする。
だから私はいかなるときも愚かではない、というわけではなく、そもそものほほんとする手前の段階で理性が介入してきて「ここからちゃんとのほほんとするには本腰入れてバカにならないといけないぞ」と訴えられ、その問いかけ自体によって必ず醒めてしまうのだ。覚悟が足りない臆病者。
こういったブレーキをかけることなく一旦無闇にのほほんとし、ブーメランのように一度手を離れた理性を取り戻せる人こそが持てる、狂気じみた言動がある。それには憧れる。
少し話を変えて……
のほほんとするのは一人でも可能だが、例えば人と対面したときの緊張感というのは、相手への敬意でもあると思う。(この文章の接続大丈夫か?)
これは、相手が一般的にまともであるうえで、なお緊張感を持つことが、という意味。(例えば暴力団みたいな、あちらから緊張感を与えてくる人に対して相応に抱く緊張感はこの場合ではない)
他人に対して一切の危機を感じないというのは、相手に危険性がない=相手は自分を脅かすほどの力を持っていない、と感じているということだとも考えられるだろう。なめている、とも表現できる。まあそうでなく、純粋に相手を信頼しているのならそれは立派に社会的なコミュニケーション……。でも可能性として、力があるのならそれが行使されることも考えられる。
相手が野蛮なことをしないと信じあうのはもちろん健全な関係だが、「相手は変なことをするかもしれないけど、されたとしても自分は負けない」と内心感じながらお互いフレンドリーに接し合うのも良い関係だと俺は思う。実際の関係でこのような内情を明らかにしてしまうと気分はいいものではないかもしれないが、でも割とある気がする。現段落1文目の各パターン同士が対面していることもあるだろう。全然覚えてないけど「あらしのよるに」ってそういう話でしたっけ……。違う気がする……。全然違うかも。
なんかとっちらかった話だが、まあ人前でものほほんとしている人はそれなりに人をムカつかせたりするものの「すげえ奴」と評価されたりする。この評価は、外野が「あいつ、誰が殺そうとしてきても負けない自信があるのか」と無意識に&勝手に推察することに依拠しているのではないか。
ま、そんなこと誰も考えてねえか! ナハハ
今『あらしのよるに』のWikipedia見たら、記憶していた話と全然違った。よく考えたら最後まで読んだことなかった。小学校の図書室にあったけど、あまりに人気すぎて続きが読めなかったんだよな。なんだその状況。
あと俺、一人称を統一させる意識が全くないなあと思った。自分を表す単語としてのこだわりとかもほぼなくて、その一文で収まりが良い方を選んでいる。