勤労感謝の日。
朝から晩まで記事のための1日だった。この勢いで完成までいったら過去最速になると思う。
その代償として体力が終わっているので、今日は本当にシンプルにします。
朝食みたいな昼食。
夜は、私以外の全員が中国語を話す飲食店に行った。これまでも何回か行っているところ。
入店すれば「ニーハオ!」と言われるし、退店する者には「シェイシェイ!」と言っている。商品を持ってくるときにも中国語で何やら言っているが分からない。
分からないなりに「はい!」と答えていると、店員は私が日本人であることを察して、日本語で「ごはん、おかわりできます」と言ってくれた。嬉しかったのでおかわりした。
店員同士のやりとりも客の雑談もすべて中国語で、上記のニーハオシェイシェイ以外は何を言っているのか分からない。それが心地良い。
環境音としての他人の会話を聞きたいと思っても、日本語の会話では私にとっては必ず意味が生じてしまい余計だ。ただ会話を聞きたいのであって、会話の意味を読み取りたいわけではないのに。勉強する時に歌詞付きの音楽を聴くと集中できないようなものだ。
しかし例えば中国語なら、私にとっては完全に意味が無い。私は中国語を学習していないからだ。認知できないものは主観的には無いものに近づく。
極端な例だけど、我々の目は赤外線を捉えない(我々の目で捉えない光の一部を赤外線と呼んでいる、の方が正しいだろうけど)。これがもし赤外線を捉えてしまうようになったら、今までと同じように過ごすことはできない。鈍感でいられるエリアがあるという安寧。