2022年11月10日 なぜ覆水は盆に返らぬ

食事の用意をしている際、カーペットの上にあるテーブルで飲むヨーグルトのボトルを倒してしまい、

あーーーーー!!!!!!!

と叫んだ。これはもうハッキリ叫んだ。
そして拭いた。飛び散ってたからいろんなものも濡れた。パソコンも電波時計も濡れた。
本当にいいことが一つもない事件だった。

こういう取り返しのつかないことをしてしまうと、なんだか不思議な気持ちになる。どうして取り返しがつかないんだろうって。

さっきまでボトルの中にあって、そのままコップに注いで飲めば何も汚れず喉も潤って栄養も摂取できたのに、こぼしてしまったせいでその全てが失われて、物は汚れて臭くなりティッシュは消費され食べ物は冷めてしまう。

この大きすぎる幸不幸の落差が、たった一回の「こぼし」というミスによってのみ生じ、しかもリカバーできないのはなぜだろう。本当は何かまるっと解決する手段が残されているんじゃないかといつも思う。

逆の例があまり無いのも不思議だ。

たった一回の何かをすればしばらくハッピーな状態がもたらされる、という事象は思いつかない。良いことをキープするには常に能動的である必要がありそうだ。だから自殺という手段も往々にして用いられるのかな。幸せは手に入れ続けなければいけないということへの絶望と、早く死んだ方が総じて楽かもしれないという希望によって。

生命の維持って、なぜか面倒だよな。人に限らず動物や魚や虫もかなり苦労して生命を維持していると思う。いずれにせよ最後死ぬし。なんなんだ。

私は昔からマジで死にたくないと思っている。私以外の人の寿命を吸ってでも生きたい。どうにか死なずに済む方法はないかとか、死んでも実質死んでないようにできる方法はないかとか考えている。一つ確実にやっておきたいことはあるので、ある程度のお金を手にしたら実行しようとは思っている。

なんでこんな話をしているんだっけ。
ああ、飲むヨーグルトをこぼしたのか。

皆さんはスラスラと文章を読んでいるだろうけど、私は1文字ずつ文字をタイピングし、時に消し、時に何かを検索し、ようやくここまで来ている。だから飲むヨーグルトのことなどすっかり忘れているのだ。

でも、カーペットに飲むヨーグルトをこぼすことって、軽く死を想起するぐらい絶望的なことだと思うよ。

実家の猫を撮影した動画をずっと見ている。

この猫は、かわいげのある表情をしない。基本的には無表情だし、こちらを見るときは睨んでいるような印象さえある。まだ子猫だが、きゅるん みたいな効果音は一度も感じたことがない。

それがいいんだよな。常に結論が出ていない感じで。真っ当な「かわいさ」という答えを提示されてしまうとそこで一旦終了するんだけど、この猫はコミュニケーションを円滑にしない表情をしているから、猫なりに何か正解を求め続けているようで信頼できる。

まあ私の傲慢な解釈だが。

あ、でも猫は私に対して以前よりは「遊んでくれる奴」という印象を持っている気がする。幸いである。

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