2022年11月11日 たまさか供養体験

オモコロの記事に関与しました。
写真の投稿者名を明かさないのがいいなと思った。記事の主題が尊重されてる感じで。

ただ私の場合は指令をいただいたので、従った。

これは3年以上前に撮影した写真で、「なんか消すには惜しい」という印象を抱えたままカメラロールに残り続けており、私は処分を迷わされていた。

しかし今回このような記事に掲載する機会を得て、処遇に関するジャッジまでしてもらったことで、この写真への未練は無くなった。
私は「この写真は十分に役目を果たした」と心から感じ、そして同時に「これこそが供養だ」という理解が生じたことに気づいた。

本来、供養という言葉の意味は、仏に供え物を捧げることを指す。しかし日本人の一般的な生活において供養という言葉は、死者の弔いや、愛着のある道具の処分に際して用いられることが多い。
ネットの文脈では「自ら制作したが諸事情により日の目を見なかった作品を公開する行為」を「供養」と表現することがある。これは上記の例で言うと後者の、ごく日本的な感覚だろうと思う。供え物として自信を持って献上するものではなく、そもそも供える相手などいない空間にただ粗品として差し出し、しかし可能なら多くの人に見てもらいたいという、謙遜のオブラートに包んだ自己満足が、この「供養」だ。

一方今回私が体験した供養では、「記事」というお供え先があった。提供した写真によって記事は養われ、我々はオモコロ編集部という5人の如来に信心を示すことができた。
さらに私は、奉上した供物について特別な使い道を与えていただいた。これはすなわち如来が供物の価値を認めたということであり、本来の意味での「供養」の成立を証明する。

その上で「愛着のあるものを丁寧に処分する」という日本的な供養も成立している。
だから私は「これぞ供養だ」と実感してしまったわけだ。

ネット文脈の供養については意地悪っぽく見える書き方になってしまったが、ただそういう性質であると思うだけで、互いに自己満足をやり合う空間というのはごく基本的なことだろう。そもそも最初から他者のためになる活動なんてほぼ無いし、だからこそ今回の供養が有難く供養たらしめられた(と私は感じた)のである。

ぐだぐだと小難しく書いたけど、結局は「持て余していた写真をいい感じに使えてラッキー」ということに尽きる。

大量のキウイを買えばゼスプリのフィギュアがもらえるというので、買った。
私は去年100個以上のキウイを食べたから、この程度の量は普通に買える。

もう入っている。

やあ

お腹にシールが貼ってあるのがいい。

ちなみにキウイは11個入っていた。
このゼスプリ君を含めて12個、1ダースだ。
本来普通のキウイが入るところにこやつが潜り込んでしまったように感じられて楽しい。

今はPCモニターの上に座らせている。

タイトルとURLをコピーしました