俺、今年はもう競馬を控えようと思う。
そもそも禍が始まった頃は馬券のネット購入を登録していなかったから、競馬場にもWINSにも行けず、しばらく馬券自体買っていなかった。それなのにひとたび口座を登録したらこのありさまだ。
馬券のことは一旦忘れて、レースだけを見る訓練をしよう。そんなのできるのか? できない。
苦しい。
小エビのサラダ。
だけでなく……?
うおおおおおおおおおおおおおおお
競馬で負けた後って、いろんなことが少しずつどうでもよくなるんですよね。だから1人でこういう注文をしてしまいました。
いいよね、もう。競馬控えるんだから。
競馬で負ける感覚を体得した人は、仮に競馬を辞めたとしても「そのまま競馬を続けて負けていく自分」の姿を想像することができる。つまり、競馬をせずに生活するだけで、ifの自分との収益差がどんどん生まれていくのだ。
逆の視点から言えば、競馬をやり続けた結果「やめておけばこんなに負けなかったのになあ」と思いを馳せるときのその「ifの自分」になれるのだ。
最初から競馬をやっていない人がこの思考法を適用できるかというと、それは違う。そういう人は最初から競馬をやらない人生の上を生きているから。
俺はどう足掻いても競馬をやらざるをえない人生の上にいて、そしておおよそ負けることが決まっている。そこから鋼の意志で「競馬をやらない人生」へと移行しようとしているのだ。
だから相対的なプラスを得ることができる。
意味わかりますか? わかんなくていいです。
「意味分かんないけどとりあえず競馬には手を出さないでおこう」とだけ思ってもらえれば、俺の言動にも意義が生まれます。
あと「競馬を控える」というのは、週2000円ぐらいまでしか買わないという意味です。
青豆の温サラダのチーズは別添えでお願いした。
このチーズは味が強すぎるから青豆と一緒に食べたくないのだ。
つまり……?
こういうことですよね。
今回のチーズは量がかなり多かった。
青豆の粒も綺麗だったし、どのメニューも綺麗な盛り付けだった。
この記事を書いていたとき青豆を一粒ずつ計測して食べていたんだけど、それってつまり「自分が食べる全ての青豆を一旦目視してから口に入れる」ということをしていたんだなと、今日いきなり気づいた。
数える労力とかは特にピンときていないんだけど、このことはちょっとすごいかもしれないと思う。
多くの人は食べ物を凝視しない。
人と一緒に食べていれば尚更だ。
食事の場で異常な行動をすればそれだけでコミュニケーションに滞りを生むだろうし、「何か変なものが入っていたかな?と余計な心配を持たせることになる。
でも俺は、全ての青豆を一粒ずつ見て、大きい粒があったら「大きい」と思ったり、欠けている粒があったら「こっちの欠けている粒と合算して1粒と捉えよう」と考えたりした。
これってすごくないだろうか?
豆で言うと、みんな節分の豆なら一粒ずつ目視して食べるかもしれない。あれは年齢の数だけ食べるという風習もあるから。
でも米になると粘着力が強くてかなり数えにくいだろう。おいしい食事を同時に成立させようとすると、計測は実質不可能だ。
やっぱり俺の621粒計測は、食事としてすごい気がする。ちょっと宗教の修行とかにも応用できそうなパワーを感じる。
そんなことないですかね?
すいませんでした。
反省してま〜す