開き済みのイワシを買えば簡単にフライができると思ったのだ。この3尾で160円ぐらいだから、手間込みで安いでしょう。
写真は塩と酒で臭み抜きをする図。
鶏モモも安かったのでついでに揚げた。
とにかく安いものを買う習性がある。
コオロギを食材として導入することに議論があるようだけど、美味しく食べるための加工や調理法が確立したうえで安く仕入れられるんだったら私は喜んで食べると思う。イナゴは食べ慣れているから見た目の抵抗も無いし。これは卑しい個人の意見です。
小魚みたいな生き物を丸ごと食べるときの「栄養とりまくってるぜ」という感覚が好きで、イナゴ系の虫についても「顔とか内臓とか全部食べるのきもちいー」と思う。外骨格を歯で噛み潰す気持ちよさというか、支配の快感みたいなのもあると思う。奴らの敵になりきった気分。殻ごと食べられるソフトシェルクラブという蟹が人気な背景にも似たところがないだろうか。
しかしもしカエル食が一般化してスーパーに陳列されるようになったらと考えると私はかなり嫌だから、コオロギに抵抗を示す人の気持ちもそれなりに分かる。食べること自体は全く構わないんだけど、加工前の姿は目にしたくない。
そう思うと、新たな何かを嫌がる側の立場は弱いよな。拒絶して得することってほぼ無いと思う。私も徐々にカエルを克服していこうとは思っている。克服しないうちは夏期の行動可能範囲が狭いままなので。
最近、ツイートがかなり伸びやすくなっている気がする。Twitterの仕様が大きく変わったことに伴って、ある程度伸びたツイートは成長が助長されやすくなっているのだろう。
これとか、個人的に「恋」というワードが今ちょうど面白いというだけで適当に書いたことなんだけど、恋の当事者たちの共感を得られるところまで拡散されていた。
反応の中には「手の届かない人物に対して本当の恋をする虚無感に耐えるために、あえておどけた語彙を選択しているのではないか」というものがあった。なるほどそういうこともあるのかもしれない。
そういう場合について考えると、私はそのおどける姿勢が好きではないなと思った。
手が届かないとか考えるなよ、と思ってしまう。二次元だとしても、本当に他の何よりも愛せるなら最後までそれに身を捧げればいいじゃん。経典のために天竺を目指した三蔵法師みたいな人もいるぞ。
要するに、ガチ恋という言葉の陳腐さに頼って自分の感情を手っ取り早く一般化してしまいたい、ということだよな。当人としては切実なのかもしれないけど、ちょっと残念だ。せっかくそんな気持ちがあるならもっと個人の中で葛藤して苦しんでいればいいのに、と思っちゃう。
まあこんなこと言えてしまうのも、私が極度に自分を愛していて、根拠の無い自信を持って生きているからかもしれないが。私自身は死ぬまで何かに執着して苦しむ覚悟があるわけではなく、単に「悲観せずともいつか必ず自分の思い通りになるだろう」という確信があるだけである。
一人で街を散歩しているときなんか、「歩くだけでこんなに楽しめるのだからこの世界の主人公は私に違いない」と本気で思っている。
能天気というより、喧嘩腰に近い。