2022年12月2日 八十八番目の手間

最近、己の気力の所在が分からない。

ペダルの無い自転車に乗っていて、今はただ下り坂だから前進できているだけで、やがて平坦な道が続けばパタンと倒れてしまいそうな不安がある。

精神的に不器用になっていると感じる。
自分には何ができるんだっけと考えたとき、これといった能力や実績が無いことを思い出しては絶望する。周りの人たちは堅実に能力を身につけたり財産を得たりして生きているが、私は何も成長していない。

どうにも言いようがないけど、とにかく自分があまりにも空虚だと感じる日々なのである。
人生の手応えが無い。

私は曲がりなりにもライターを名乗っているのに、そもそも言葉と社会のつながりを信用していないところがある。

言葉のことを深く考えようとも、経済中心の社会でその行為に価値はない。丁寧に言葉を使うことは反社会的だ。むやみに真実を表そうとする言葉は社会の安定を失わせるからな。不都合な真実を暴くとかでなく。

オリジナリティは持たず、誰もが使っている言葉を優先して使わなければいけない。みんなが知っていることを言わなければいけない。言葉はできるだけインスタントに消費しなければいけない。そういう暗黙のルールで社会は成り立っている。

結局私がやってることもそれなんだけどな。
抗えないことにも辟易する。

本当はみくのしんさんのもとに100億円ぐらい集まってくるような社会であってほしいんだ。みくのしんさんが書かれる文章って、通念に対する合気道みたいな破壊力がある。みんなの使っている言葉が実はまるっきり嘘であることを暴いてしまう。政治家の人とかが読んだら本能的に恐怖を感じると思う。そして与党は「あの男に国会中継を見せるな」と指示を出す。政権を転覆させかねないから。

この動画すごくわくわくした。夢みたいで。
憧れという意味でなく、寝て見る夢。

「こんな入り口あったんだ」
「こんな部屋あったんだ」
「こんな道あったんだ」
という類の発見って、上質なワンダーだよなあ。そういう夢を見るために現実の世界を記憶していると考えてもいい。夢で拡張するための素材として現実がある。

あと、先日ダ・ヴィンチ・恐山さんが特に事情を言わずお米をくれて、私も何も訊かずに喜んで頂いたんだけど、その真相がこの動画にあった。

うっすら考えていた背景と全く異なる答えがあって驚いた。入手方法も購入の理由も全く想定外だった。領収書出てないじゃん、とも思った。

思わず台所に行き、米を確認した。
なんとなくもらっていた米に、ぼんやりと苦労の影が浮かぶ。遠方からわざわざ背負われてやったきた5キロの米。だいぶ不可解な苦労ではあるが、それでも少しありがたみは増してしまう。不意に食育的作用が生じた。

きっと恐山さんは、こうなることを避けるために何も言わずくれたんだと思う。苦労を案じて私が気を使ったりすることなく、ただ純粋にお米の味を楽しめるように。笑顔でお腹いっぱいになれるように。(大袈裟)

しかしちょっと楽しかったな。
YouTubeを通して台所の米が異化される体験。

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