2022年12月1日 名食い

12月になったことで、音楽サブスクが「今年聴いた曲ランキング」を提示してくる。
みんなTwitterとかで載せてるけど、誰のランキングを見ても意外だから面白い。

上半期はAdoとパスピエばっかり聴いていて、チェンソーマンの放送開始からは米津玄師とずとまよのヘビロテだ。意外性無いな。

『コクリコ坂から サウンドトラック』のランクインは異質に見えるかもしれないが、これは高校時代から聴いているアルバムなので生涯ランキングでもベスト10に入ると思う。
勉強するときのBGMといえばこれか、ゼルダの伝説のサウンドトラックだった。人の声があると集中が削がれるからサントラがちょうどいい。

しかし今日聴いていた音楽はすっかりシャニマス一色。配信されたばかりだし昨日の日記でがっつり触れたため、脳裏には常にシャニマスの人たちがちらついている。

選抜した曲をある程度聴いてからは、シーズの『Bouncy Girl』をひたすらリピート。やっぱりこの曲の七草にちかさん良い。

「黛 冬優子」「浅倉 透」
この二人だけ姓と名の間にスペースがあるのはなんなんだと思ったけど、姓か名が1文字だと設けられることになってるみたいだ。視認性のためのシステマチックなルールだった。

「黛 冬優子」はシャニマスメンバーの中で一番好きな名前だな。芸名? 本名?
「黛」と「冬優子」のバランスがいい。文字もだけど「まゆずみ ふゆこ」の音も良い。これで苗字が「田村」だったら締まらないだろうし、とにかく私は絶対に興味を持てない。(田村には田村に合う名前がある)

そう考えると、これまで学校とかで自分から話しかけた人って大体「いい名前だなー」と思った人ばかりだ。名前をつけたのは本人じゃなくて親なんだけど、それはそれで私が良いと感じる名前を考えた人に育てられた人ということだからな。
これってすごく差別的で乱暴な考え方になりうる。ただどうしても名前に興味を持ってしまうという私の性格がある以上、それを否定することもしない。逆もあるしね。

与えられた名前を自分のものとして吸収できている人(たぶん多くはそう)ならいいかもしれないけど、親のことが大嫌いで親に与えられた己の名前までも憎んでいる人がいるとして、私がその人の名前に興味を持ったからこそ話しかけたとしたら、私は地の底まで嫌われるだろうな。私はその人自身ではなく親を見ているわけだから。「親の子」として見ていることになる。なんだこの想像。ちょっと卑屈か?
そういう点では、ペンネームやハンドルネームで交流することはかなり公平だ。

親以前に、苗字の呪縛を感じることがよくある。
それは「田村には田村に合う苗字がある」と前述したようなことで、親は子の名前を自由につけられるとしても「名前は苗字の後に添えられる」という条件からは逃れられないということだ。これは相当なバイアスを生んでいるはずである。特に音(読み方)の面で。

そういうデータは見たことがないし、もし統計が出たらかなり波紋を呼ぶと思うんだけど、「苗字ごとの名前の割合」を算出したら絶対に偏りあるよ。特に日本語は1文字1音の言語だし、七五調を重んじる文化があるように音の数には敏感だ。
名前というアイデンティティに触れるセンシティブなことだから、迂闊にデータを出しちゃいけないと思う。

あ、でも漢字の画数で名前の良し悪しを判断するシステムもあるのか。あれこそ無神経でどういう理屈で言ってるのか分からないけど、だからこそ受け入れられているんだろう。もし悪くても「いちいち画数まで考えてねーよ」と一蹴できる。

一方、音は言葉の根源だからな。苗字の音を把握しないまま名前を考えることはできない。

しかしまあそこの連係を意識せずに付けられる名前もあるにはあるのか。エピソードや時節にちなんだ名前とか。

うーん。あれこれ騒いだけどやっぱり大した問題じゃないのかな。個人的には簡単に手放せない思想だけど。わざわざこうして書くほどのことではないのかもしれない。

とにかく、私は人の名前に関心を持つ傾向があるということである。黛冬優子という名前には強く心惹かれる。

今年初鍋。レタスとキャベツをもさもさ入れた。

鍋のレタスは食感が際立って好きだな。

「黛冬優子」ぐらい好き。

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