3月になり、はっきりと春の陽気だった。
どうぶつの森みたいな切り替わり具合である。
今日は、たくさん走った。
走るつもりはなかったけど、電車に遅れそうだったり、電車で降りる駅を間違えたりで、走らざるをえなくなっていた。
走らざるをえなこ、だった。
えなこの由来って、何なんだろう……?
芸名の由来は可愛いからなんだそう。
読点「、」をたくさん使っている文章を見るたび、「西村京太郎かよ」と思ってしまう。中学生で初めて西村京太郎を読んだときの「この人の文章には読点が多すぎる」という印象がずっと残っている。
初めて読んだのは『東京湾アクアライン十五・一キロの罠』だった。ブックオフで100円コーナーを物色していて、面白そうじゃんと思って読んだら面白かった。そこから十津川警部シリーズを結構読んでいたが、内容は全く覚えていない。亀井という刑事がいたことは覚えているが、本当にそれだけだ。
都内で発見された男性の絞殺死体。傍らに残された「タクサンノヒトガシヌ」という遺書は、大量殺人計画の存在を告げていた。その頃、一本の脅迫電話がかかってくる。
「タクサンノヒトガシヌ」って怖い。カタカナが帯びる不穏さってある。
現代の我々にとってカタカナは主に外国語を表すための文字であって、そのように用途がはっきりしているからこそイレギュラーな使用が怖くなるんだろう。フォントに依らず文字情報そのものが及ぼす怖さって案外特殊だと思う。
あと昔はひらがなよりカタカナの方が主流で使われていたから、そこらへんの「古(ふる)っぽさ」が漂わせる雰囲気もあるのかもな。日本人形が怖アイテムになっているように。
実際カタカナはホラーや都市伝説のキーワードでよく使われる。フレーズ全文字がカタカナというパターンも多いけど、「巨頭オ」みたいに部分的なカタカナで雰囲気を出すのは技巧が光っていて個人的に好きだ。
ホラーとカタカナの相性が明らかに良いからこそ、そういう文脈においてひらがなが出てくると逆に目を引くというのもある。「きさらぎ駅」とかいいよなあ。初手から警戒心を与えるわけじゃないのが良い。
「小学○年生がやってるラーメン屋」みたいな感じでツイートするために “佐は習ってるけど藤はまだ習ってない学年” を調べようとしたら、なんと佐も藤も中学3年生で学習することを知った。
たしかに、佐を早く教える必要は無い。佐藤のほかには佐伯、佐野、補佐、大佐ぐらいしか使うイメージないし、それらも普段の会話じゃなかなか使わない。むしろ藤は名字でかなり使うから、使用頻度を考えれば佐より早く教えていいのかもしれない。平安時代の藤原氏の隆盛はここまで影響している。
数年前、高校の同級生の冨田という男の家に遊びに行ったとき、冨田が大学のサークルでもらった寄せ書きが置いてあって、その宛名が「とむ大佐」となっていたのが面白かった。
高校での冨田のあだ名が「とむ」だったことは一度も無いし、グリークラブに所属しながら大佐になっている理由が分からなかった。見知った奴が見知らぬところで「とむ大佐」として振る舞っている様子に思いを馳せる。
ちなみに、このあだ名が小学校の時に生まれていたら「とむ大さ」となっていたわけである。