実家の猫は元気すぎる。クマのぬいぐるみが好きでいつも取っ組み合うように遊んでおる。
そのクマを私が投げると猫はダッシュで追いかけ、くわえて私のもとへ持ってくる。それをまた私が投げて、持ってきての繰り返し。
ダッシュというか、ジャンプして空中で腕を伸ばしてクマを掴んだのち噛みつき、くわえながら着地している。すごい運動神経だよな。子猫ってこういうものなのかね。
ChatGPT(GPT3.5)関連の現状を少しずつ把握しようとしているが、全然わからない。楽しさ半分、焦り半分だ。bingはまだ順番待ちで使えていないし。
とりあえずChatGPTにいろんな疑問を投げかけ、その返答を読んでは「なんでそんなことも言えるの!?」と都度驚いている。驚けることが楽しい。個人的に好きなのは、私自身答えを知らない専門的な質問をして、ChatGPTから専門的な返事が来て、それを精いっぱい理解しようとした上で「私はよく分かっていないのですが、あなたが言うAの説明は、その後のBに関する説明と矛盾していませんか?」と本気で質問したときに、「いいえ矛盾していません。Aにはこういう意味、Bにはこういう意味があります」と噛み砕いて返してくる例だ。こちらがアホすぎて失望される心配なども無く質問しまくれるのが心地良い。子どもになって大人と話している気分。(しかし理想を言えばこちらが聞き返す手間も省きたい)
何を言っても大袈裟な感じになってしまいそうなのだが、いま使っているAIチャットは私が能動的に行動を選択できるようになって以降現れた最もすごい道具だと感じる。これについては、私がそもそも先進的な道具に触れる経験が少なかったために余計興奮している感もある。
私が生まれたときすでにパソコンは一般家庭に普及していたし、iPhoneが登場したのも小学生の頃だったので利用者たる年齢になく、Twitterの登録も後手だった。しかしそれらの登場当初の熱というのは文化が熟成してからしばしば振り返られるもので、私はそういう言説を過去の事実として鑑賞しつつ、黎明期に立ち会っていた人たちのことを羨ましく思っていた。
私は今、当時を生きる者としてそういう事象に立ち会えるような気がしている。重ね重ね大袈裟だが、2023年を大人として生きている者の特権を享受できる可能性を感じる。つい数日前まで「チャットAI? ふーん、まあすごいんでしょうね」みたいなテンションだったのが嘘みたいだ。
今回と似た類の興奮はDSiでも得ていたような記憶がある。あれは私が初めて持ったデジタルカメラで、ボイスレコーダーで、ボイスチェンジャーだった。しかしあの体験は世界にもともと存在していた技術を私個人が初めて触れたということであって、今回の「世界で普及され始めた新しい技術」とはまた性質が異なる。
ChatGPTは誰でも無料で利用できて、APIを使うにしても信じられないほど安価というのがすごい。的外れな喩えかもしれないけど、アフリカのスタートアップが投資されまくっているのに似た凄まじさを感じる。「本当に世界変わるじゃん!」という叫び声が脳裏にこだまする。
パソコン通信を最初に触れた人たちってこういう気持ちだったりしたのかな。技術の方向性が違うから一概に言えないかもしれないけど。
まあ、同じ変化なんて実質あり得ないから一概に言えないのは当然か。
スプラトゥーンの「ビッグラン」をやった。ナワバリバトルやガチマッチで使われるステージがサーモンランの舞台になるやつだ。今回は海女美術大学だった。
さらに今回は新しいオカシラ「タツ」が登場した。これがとてもカッコよかった。太くてデカい龍が目の前を飛ぶ様子は最高だ。「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」の龍もたまらんよな。ああいうのが出てくる夢こそが私の理想的な夢だ。
そういえば、悪夢の対義語となる言葉ってあるんだろうか。
調べてみました!
「吉夢(きちむ)」というのがあるらしい。
キモ……w