2023年5月21日 ガチ語彙勢

電車に乗ったら、かなり元気な子供がいた。そこで私は耳が密閉されるカナル型イヤホンを速やかに装着し、声優のラジオを爆音で聴き始めた。

このせいで地獄に行く筋合いは無いけど、こんな奴が天国に行けるとも思えない。

一応、私に向かって「こんにちは」と言ってきたときは「こんにちは」と返したぞ。ていうか1人で私の隣に座ってずっと何か言ってたんで、周りの人に「この子って1人で乗ってるんですか?」と聞いたら親が来た。

直接本人に「1人なの?」と聞かないあたり、子供を信用していないことが分かる。まあ本人に聞いても有効な回答は得られないだろうと感じたからそうしたのだが。

子供と話すのはとにかく苦手だが、ほかにも、確固たる情熱を持って生きている人とは話しにくい感覚がある。そういう人が幼稚だという意味でなく、「そこまで精神が仕上がってるなら私と話さなくてもよくない?」と思って気が引けちゃうというか。

あと、「その人には信じているもの=疑ってはいけないものがある」という背景が怖い。私がその地雷を踏むのが怖いんじゃなくて、私が相手の精神的な何かを破壊するのが怖い。私が嫌われるのは構わないけど、相手の何かが壊れるのは私じゃどうにもできないし責任取れないから。

そう考えると、私が人間関係を通して抱くストレスの要因の大部分は「私の言葉によって他人が傷つきうること」かもしれない。私自身が他人によって傷つけられるという懸念はあまり無い。

だからこそ他人の言葉の使い方が気になってしまうところはある。「てめえ、他人の言葉で傷つくというなら己の言葉遣いには本気出せよ」みたいな。筋を通してほしいんだろう。反語的に「言葉遣いに本気出さないなら傷つくとか言うなよ」とは、流石に思わない。感情の起こり方として逆らえない順序があるから。

能力やリソースの問題でいちいち言葉のことを考える余裕を誰もが持ち合わせているわけではないというのは分かった上で、私自身の理想として、上記のような考えはある。まあ言葉ってそもそもそんな崇高なものではないと思ってるけど、否応なしに使うものではあるから、どうせなら精度高めていこうよという意識だ。

何のためにこんな考えを持っているのか分からない。力みすぎていると思う。ただなんとなく、諦めたらあとは死ぬだけだなという感覚がある。

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